第4回―トリック映画の幻影― 後編
Text by 田村信

 オチや犯人がすぐわかってガックリくる映画も多いが、代表的なのがブライアン・デ・パルマの『殺しのドレス』('80 米)だ。
エレベーター内での殺人場面で、犯人が歪んだ鏡に正面から映るのだが、変装しているとはいえ、どう見ても犯人がわかってしまう。あまりにもあからさまなので、これはしたたかに計算されたフェイクかなとも思ったりするが、そのまんまだ。
トリック映画のカルト『キャリー』('76 米)以来、ブライアン・デ・パルマ監督のファンは多いのだが、長回し好きのこの監督は、『アンタッチャブル』('87 米 脚本デビッド・マメット)みたいな傑作を作ったりもするが、『スネークアイズ』('98 米)みたいに狙いどころがズレた中途半端な大期待はずれ作も作る。ラストにターキーな空クイズを出されても困るのだ。

オチがすごいのは、『記憶の扉』('94 仏・伊)だ。あのロマン・ポランスキーが俳優として仏の名優ジェラルド・デパルデューとねちっこく絡み、ラストは仰天する。
グチャグチャホラーなのに見ていて楽しいサム・ライミ『死霊のはらわたU』('87 米)のラストもぶっ飛んでいるが、ちゃんと『キャプテンスーパーマーケット』('92 米)という続編があるところが律儀だ。

いまは普通のニイチャンになった『ホームアローン』('90 米)のマコーレー・カルキンも出ている『ジェイコブズ・ラダー』('90 米)のオチも異色だし、クエンティン・タランティーノ総指揮の『フェティッシュ』('96 米)のオチは不謹慎ながらオシャレだ。『ゾンゲリア』('81 米)のラストも「ありゃまー」と驚く。
『ユージュアルサスペクツ』('95 米)のオチもしたたかだが(第1回で犯人をバラしてしまったというご指摘をいただいたので、その部分は削除した)、これの逆パターンが『アイガー・サンクション』('75 米 監督、主演クリント・イーストウッド)だ。逆パターンはちょっと反則ぎみだが、かなりのトリック効果はあった。『エンゼル・ハート』('87 米)のオチも「ひえ〜」と叫ぶ。

人工的に作られた世界で生きる男の生活を何十年にもわたってTVで生中継するというすごい発想の秀作『トゥルーマンショー』('98 米)や悪者達が人質とともに立ち寄った館がドラキュラの巣だった『フロムダスク・ティルドーン』('96 米)などは設定自体が強烈なトリックだが、共に前宣伝の時点でネタをバラしてその奇抜さを売りとしているわけで、どちらも面白いが、更なる逆転のオチは用意されていない。
《ちなみに、『トゥルーマンショー』の脚本を書いたアンドリュー・ニコルは『ガタカ』('97 米)では脚本、監督もこなしている。この映画も近未来の不思議なムードを持った怪作なのだが、ここで重要な役どころで出演しているのがジュード・ロウ。そして、なぜかこの映画に特別出演(クレジットはラストのみ)しているのがエリエス・コータース!!(第1回参照)
ジュード・ロウはこの後『イグジステンズ』の主役としてデビッド・クローネンバーグに迎えられるのだが、コータースを挟んだクローネンバーグとジュード・ロウのトライアングルはとても偶然とは思えない。ジュード・ロウの実質的デビュー作『真夜中のサバナ』('97 米)の主演はケビン・スペイシーなのだ。H.H.Nの気配を強く感じる。》

トリックを隠したいんだけど隠せない、秘密にしておきたいんだけどちょっと知らせておきたい、どっちやねんのトリック映画が名作『クライングゲーム』('93 英)だ。ニール・ジョーダン監督の最高作でもあるこの作品のビデオパッケージにも、「この映画の秘密は決して人に言わないで下さい」などと、『シックスセンス』そっくりの“お願い”があるが、こちらはむしろ内容をわかって見たほうが面白いし、英・米でロングランを続けたのも、みんな口コミで“秘密”を知った上で、ある種“恐いもの見たさ”も手伝っての成果である。
もちろん、作品の出来のよさに負うところが一番なのは間違いないが、日本公開時の紹介でも“それ”を匂わせるものも多かったし、いまとなっては隠しようがない。要するに、魅かれた女が男だったわけなのだが、その“女”は映画開始から40分後に登場し、60分のところで男だとバレる。
この作品の見どころは、その後の展開にあって単なるトリックだけが売りではない。同性愛物としては『Mバタフライ』('93 米)のパターンだと気づくが(製作年数は2作とも同年だが『Mバタフライ』の原作はもっと古い)、そんなことはいっこうに構わない。

重要な“女男”を演じたのは、この映画がデビュー作のジェイ・デビッドソン。翌年の『スターゲイト』('94 米)でも王だか、女王だかよくわからない中性的な魅力を振りまいたが、役者が“女男”を演じたのではなくて“本物”が役者になったと見るべきだろう。
かたやこの映画の後も『インタビューウィズバンパイア』('94 米)、『ブッチャーボーイ』('98 米)と、ニール・ジョーダン作品には欠かせなくなった主演のスティーブン・レイの線の細さもここではピッタリはまった。
 2人が実にいい。脚本が緻密で、この監督特有の抑揚の少ない淡々とした運びだけに前半40分はややかったるさもなくもないが、だからこそ中盤以降の“期待”をわかっておく必要があるのだ。全編に漂う哀愁とささやかな笑みがほどよく、ラストも秀逸で、妙に余韻を残す。

実は、『クライングゲーム』をつい最近ビデオ屋で借りてきて、観直して「ありゃりゃーっ」となった。“女”が男とバレるシーンで、裸のJ・デビッドソンの顔から胸、下半身と、カメラが舐めるようにティルト(縦移動)していくのだが、このワンカットで、観客に正体を知らしめるというはなはだ重要な部分に、映画公開時はもちろん、以前借りたビデオテープには当然のようにボカしが入っていて、胸がないのはよくわかるものの、肝心のあそこにちんぽがついているかどうかはよくわからなかった。流れとして、みんなあると判断していたし、友人の劇画家などは「あそこにボカしを入れたんじゃ、映画自体が成り立たない」などと憤慨していていた。
 ところが、何と、今回借りたビデオにはボカしがなかったのだ!!
 これはさすがに「ありゃりゃーっ」である。そして果たしてそこにはちんぽがあった!!!「ありゃりゃーっ」。はっきり見えた!!!「ありゃりゃりゃあーっ」。別にちんぽなんぞ珍しくもないが、一般映画でいきなり出てきたらびっくりする。なければないでまた恐いが、これには驚いた。しかも前回は確かにボカしがかかっていたのだ。なんなんだ、これは!?
 これこそ真の意味でのトリックだし、マジックではないのか!?
 テープが新しいものに変わったことは間違いないが、その新しいテープはボカしなしで許可されたのだろうか?
 つい最近の『ファイトクラブ』には、サブリミナルが数カ所ほどこされていて、最後に現れる1カットは、結構わかりやすい他のものと比べ、ショットの時間も短く何10分の1秒かの“瞬間”はかなり意識して観ないとわからない。だが、このカットをコマ送りで観ると、何と“ちんぽ”のドアップだ。そしてこんなところにもしっかりボカしが入っているのに笑った。
 ことほどさように、アンダーヘアーこそ最近はチョコチョコ見かけるものの、“ちんぽのボカしなし”などという無謀は、まだまだ許されていないはずなのだ。
 それとも『クライングゲーム』の場合は、“まことに重要な部分”というところで“芸術”として見逃されたのだろうか?
 謎が謎を呼ぶが、この事実は結構快挙だったりするので、謎はいずれ解く。

 その実、私はまことにもって上品な紳士なので、ちんぽがどうのこうのは書きたくもないのだが、“おしり漫画家”として“ちんぽ”と聞いては黙っていられない(なんじゃい、そりゃ)。
 これから先は全くの余談となる。確かにボカしなしのちんぽを映画のなかに見つけるのは大変だが、過去になくもないのだ。ちんぽのオンパレードのキワモノ『ネクロマンティック特別編』('95 独 ビデオのみ)なんかもしっかりボカしが入っていたが、こういうものではなくスター映画に絞ると、『フランケンシュタイン』('94 米 監督ケネス・ブラナー、主演ロバート・デ・ニーロ)でワンシーン怪物のちんぽがクリアーに見える。ただ、このちんぽは、怪物役のデ・ニーロのものではなく、ここのシーンは吹き替えだ。すでに人間ではなく“死体”だから、ちょこっとぐらいちんぽが見えてもいいとの映倫の判断だろうか?
『レッド・コーナー北京のふたり』('97 米)ではリチャード・ギアの金玉の裏が見える。鉄格子のなかへ押し込められるシーンで、素っ裸で前かがみになったギアのおしりの下から、何かが確かに見える。リチャード・ギアともあろうものが、前バリをするような腑抜けにはとても思えず、だとすれば明らかに“体の一部”なのだが、ちんぽとすれば大き(太)過ぎるし、私は金玉の裏と判断した。
 どんな役を演じても“二枚目”の金玉の裏と、これをコマ送りで何度も見返す自分の姿に気づいたときは、アルコールが入っていたこともあり、夜中に独りで15秒くらい声を上げて大笑いした。

 もともとボカしを必要としない日本映画では、ことさらに発見は難しいが、その昔、梅宮辰夫は'68年からスタートする『不良番長』(東映)シリーズと共に'70〜'71年には『帝王』シリーズというのをやっていた。主題歌の“シンボル・ロック”がちょこっと有名な知る人ぞ知るこのシリーズは、『夜遊びの帝王』『女たらしの帝王』『未亡人(ごけ)殺しの帝王』『ポルノの帝王』『ポルノの帝王失神トルコ風呂』とろくでもないタイトルながら、シリーズを通してイントロの部分が泣けたりして面白いのだが、これの第2弾『女たらしの帝王』にかなり際どいシーンがある。
 なぜか街中で梅宮辰夫がブリーフ一丁で頭の後ろと腰に手をやってポーズをとっている。これに山城新伍がホースで水をかけるのだが、ブリーフが濡れてかなりの透明度で噂にたがわぬ巨根が露呈する。
 濡れたブリーフというオブラートがかかっているものの、これは日本映画史上最大のちんぽシーンだ。観たときは「こんなもん、ホンマにええんかい」とびっくりした。

 カルト映画『八月の濡れた砂』('71 日活)では、砂浜に素っ裸でうつ伏せの村野武範が寝返りを打ってあお向けになるとき、プルンと何かが一緒になって動く様が見える。寝返りと同時に一気にカメラが引いて、ロングの映像になるが、画面の真ん中に集中していれば“何か”が動くところが判断できるはずだ。大画面ほどキャッチしやすい。“何か”とは“ちんぽ”に他ならない。
 以上のように“ちんぽシーン”はなくもないのだが、いずれも映倫の見落としか、お目こぼしに近いようなものばかりで、オブラートがかかってたり、堂々とした映像ではない。だからこそ、なおさら、『クライングゲーム』の“ちんぽ丸出し”は快挙だし、大事(おおごと)なのだ。

 ちんぽちんぽと、はたまた金玉の裏などと、本意ではないところではしゃいでしまって大変申し訳ない。本題に戻る。
 究極のトリック映画は『殺人狂』('96 米 監督マイク・メンデス)だ。今回は、この超異色作のことを一番書きたかった。ちんぽ映画がメインではない。
 日本未公開で、ビデオのみでこっそり姿を現す作品群から、こういう傑作を見つけ出すと非常にうれしい。アメリカインディーズ映画界の雄デーブ・ラーセン脚本、主演のこの作品は何の予備知識もなく、期待も、身構えもせずに入ったほうがぜったいに面白いのだが、書いてしまったものはしょうがないし、紹介しなければ誰も観ない。
 やたら安っぽい出だし2分にも心配はいらない。どうにもなりそうにもない静かな滑り出しから徐々に、じわじわと、この映画のただものではない気配に気づいていく。
 恐らくアメリカのアートシアターあたりでは、中盤から何度か拍手が起こっただろうし、ラストは拍手喝采だったはずだ。こんなとんでもないラストは、まず絶対に読めない。そして、この映画もまた今回挙げた全ての作品のなかの1本との類似点に気づいたりするが、(『シックスセンス』ではない)、最初に長々書いたように、そんなことは一向に構わないし、当たり前なのだ。面白ければ有効だ。批難されるべきは、何を元ネタにしようができあがった作品の“面白くなさ”だ。

 これらの他にもラストが小気味いい『シャロウグレイブ』('95 米)や、犯人探しの“大いなる基本”『ストレンジャー』('95 米)ら、気になるトリック映画は数え上げればきりがないが、それもそのはずで、実は映画のほとんど大半は“トリック映画”としてカテゴライズされてしかるべきなのだ。

 最後にカルト映画となった『パルプフィクション』('94 米)。いわば『レザボアドッグス』('91 米)1本で一気にアメリカ映画界注目の的となった当時28歳のクエンティン・タランティーノ。この奇才は過去の脚本が映画化された『トゥルーロマンス』('93 米 監督トニー・スコット)『ナチュラルボーンキラーズ』('94 米 監督オリバー・ストーン)でも存分に才気溢れるところを見せており、そのタランティーノの新作ということで、『パルプフィクション』は大いに期待、注目された。本国ではもちろん、日本でもかなりの人間が褒めちぎったが、私みたいにガックリ期待はずれと見た人間も多分にいたはずだ。
“売り”となったタイムラグの追走は本編の面白さに功を奏したとは思えないし、意図的なコードの外し方はとても成功とは言いがたい。映画評の代表的なところの“時間を少しズラすことによって様々な人間の奥深いところが見える”などは、“面白さ”の解説には直結していない。

 傑作『レザボアドックス』の饒舌でパワー溢れる映像は、確かにハイセンスなとんがった才能の登場であり、兄(リドリー・スコット)より、はるかに娯楽思考のドアップ好き職人トニー・スコットの手により『トゥルーロマンス』もダイアローグで引っ張る、流れるような脚本が見事に生きた。“遊び”もアクセントになっていて、ラストをいじったのも正解だ。
 うっとうしい『JFK』('91 米)や『天と地』('93 米)なんかよりも、肩肘を張らない『Uターン』('97 米)のほうにはるかに自在な“おしゃれ感覚”を発揮するオリバー・ストーンが、『ナチュラルボーンキラーズ』の脚本に目をつけたのも、多少なりとも自分が標榜しなければならない“問題意識”を掲げたその中身が、フィクショナルな純娯楽作であることを読み取ったからだ。
『レザボアドックズ』と、このあたりの巨匠をも動かしたことで、旋風児タランティーノの名前は早くもブランド化するのだが、服やバッグはとにかく、映画をブランドだけで判断するのは危険だ。

 例に挙げたブライアン・デ・パルマやデビッド・クローネンバーグはもちろん、どんな天才だろうが失敗作のない芸術家などはいないわけで、ことに複合芸術である映画は、歯車の多さゆえに故障カ所の出る確率も高い。ごく小さなものの故障はとにかく、そこそこ大きい歯車の故障は、うねりの終着点である画面に如実に現れる。
 映画をどう評価しようとまことに勝手だし、好き嫌いは結局好みに左右されるわけで、人の感性までとやかく言う筋合いはないということは前にも書いたが、あれだけ褒めちぎった人間が、次の作品『ジャッキーブラウン』('98 米)はほとんど褒めない。この2作にそんなに大きな差があるとは思えず、この急なトーンダウンに果たして『パルプフィクション』への評価は、腹の底からのものだったのか、という疑問は湧く。
 もちろん、いまでも“揺るがない面白さ”と感じ取ってる『パルプフィクション』信奉者がいることも知っている。有名な映画評論家は、数人でやっている週刊誌の映画評のページで、『ジャッキーブラウン』について、「前作の『パルプフィクション』で私はタランティーノの限界が見えたので、今回の作品も評価しない」みたいなことを書いていたが、確かに感覚は人それぞれだ。

『パルプフィクション』でタランティーノと共同脚本を書いたロジャー・エイバリーは、タランティーノ総指揮のもと、『キリング・ゾーイ破滅への銃弾』('93 米・仏)で脚本、監督もこなしたが、これはタランティーノ色が色濃く出た秀作であった。
 続いて今度は、タランティーノの手から離れ『ミスタースウイッチ悪魔の種子』('95 米 主演ルトガー・ハウアー ビデオのみ)を脚本、監督するが、やたら地味な独りよがりの駄作となった。これを見たであろうマニア達は、『キリング・ゾーイ』で出かかったロジャー・エイバリーへの褒め言葉を「うっぷ」と飲み込み、みんなが口に手を当てた。
『パルプフィクション』のプロデューサー、ロバート・クズマンも独自で、『デモリッショニスト』('96 米 ビデオのみ)のストーリー、監督に乗り出したが、よくわからない連中がワイワイ騒ぐだけの“素人顔負け”“素人はだし”映画になってしまい表立っては通用しないところがバレた。素人にもとる音楽は、どういうセンスか。クズマンは『フロムダスクティルドーン』のストーリーにも名が出るが、これはタランティーノ1人がちゃんとした脚本として仕上げた。

 ロジャー・エイバリーの映画も、クズマンの映画も、『パルプフィクション』の評価には何ら影響を与えるものではないが、このあたりを見ても、タランティーノの才能だけが際立つのだ。『パルプフィクション』は、もちろんほとんどがタランティーノ主導のもとで事が運んだことに間違いはないが、デビュー作から他人に渡った脚本も含め、クズマンの映画ら全てのタランティーノ関連の作品群を収斂(しゅうれん)していくと、それぞれに発想は“飛ん”でいるのだが、『パルプフィクション』の“飛び”ぐあいだけが“仕掛け”であることに気づく。“遊び”も含めた“計算されたルーズさ”は、タランティーノの“核”であり“売り”である。『パルプフィクション』の“売り”は、“計算されたルーズ”な“仕掛け”だ。
 この作品を作る時点でのポジションはタランティーノ自身が一番よくわかっており、オーバーにいえば全世界注目のこの1作はタランティーノの芸術家生命をも左右する試金石であり、何としてもここでタランティーノブランドとしての鮮明なカラーを強度のインパクトで焼きつける必要があった。
 創造欲と自信に裏打ちされながらも、ここでタランティーノが“余裕ある追い込まれ方”をしていたのも事実だが、“仕掛け”は過去の偉大なる芸術家の例を取ってみても、確かな勝算もあり、事実成功した。

 この“仕掛け”を売りとした『パルプフィクション』を評価するという作業は、評論家にとっても市井の“映画者”にとっても、はなはだ困難なイニシエーションとなった。どちらにとっても『シンドラーのリスト』('93 米)とはまた違った意味で正面から批難できない空気が確かにあった。
 何度も言うが、“作品”をどう評価しようと全く自由だし、どう感じ取ろうとも勝手だ。“芸術家”の“仕掛け”はそこを突く。観る者の“感性”のなかに深く侵入して、かく乱し、問いかける。“受け取り方の自由”という“感性”を静かに深く突っつくのだ。  この芸術家の切り札ともいうべき“仕掛け”は強力だ。先に例に挙げたデビッド・リンチも『ロストハイウェイ』の評価をことさら高めることにまんまと成功したし、デ・パルマの『スネークアイズ』にしても“仕掛け”によってラストの空クイズに明確な答を出す“映画者”もたくさんいるのだ。

“仕掛け”の正体とは“illusion(幻影)”である。“幻影”は“客”の“感性”にいかようにも作用する。はるか昔から、この“幻影”こそ芸術家にとっての最強最大の“奥の手”なのだ。  過去の偉大なる芸術家とは、喜劇王チャップリンであり、ピカソだ。天才ピカソが“青の時代”“桃色の時代”を経て、大胆な革新の造形的構成へと移行したのも“幻影”を強く意識したからだというのも事実だし、チャップリンも完璧なまでに“幻影”の効力を熟知していた。ポジションが高ければ高いほど、効果は絶大だ。
 タランティーノも才能ある“芸術家”ならば、当然のごとくここらはわかっていた。わかっていても、まるっきり才能のないマイケル・アルメイダあたりが作った『ナディア』('94 米)なんかとは意味合いが違うし、基本自体が“幻影”のフランツ・カフカの原作を映画化した『トライアル審判』('92 英)も比較の対象にはならない。

『パルプフィクション』はタイトルからして、したり顔の“客”に突きつけられた強力なトリック映画なのだ。これのパロディー映画『パルプフィクション1/2(ハーフ)』('98 米 ビデオのみ)などというのも出たが、パッケージには、『パルプフィクション』を指して“90年代を代表する傑作”とある。  スーパーカルトとしては、そうかもしれない。▼