第8回――リメイク映画のリフレイン―― 後編
Text by 田村信

アラン・ドロンの大ヒット名作『太陽がいっぱい』('60 仏・伊)のリメイク作品が『リプリー』('99 米)だ。リメイク映画は、時代に応じて設定や話自体も大小の差こそあれ、“変更”は当たり前だが、この作品の新作は、驚くなかれホモ映画だ。なんだとおお〜〜。
旧作と舞台設定は同じだが、主人公リプリーの人格形成、犯罪プロセスの中枢にホモのファクターを組み込んだ。
実は、旧作『太陽がいっぱい』では“ホモ”の気配は見えないが、パトリシア・ハイスミスの原作『才人トマス・リプレー』のなかでのリプリーは十分にゲイだ。(トマス・リプレーシリーズの他の作品にはそんな気配はない)新作のほうが原作に近いのだ。原作を何度も読み返し、旧作を何度も見返したであろう新作の脚本・監督を手がけたアンソニー・ミンゲラがこのあたりに“攻め口”を見つけたのは当然だ。

アンソニー・ミンゲラは、これの前の作品『イングリッシュ・ペイジェント』('96 米)で、ものすごい評価を受けた。なんと作品賞・監督賞をはじめ、アカデミー賞の9部門をかっさらったのだ。私はそれほどのものとは思わないが、「イングリッシュ――」は十分エグい話で、監督が違って表現が変われば、ホラーサスペンスにもなり得る。これを妙に“サラッ”とした情感でまとめたのが、アンソニー・ミンゲラだ。あの耽美的なうす味具合が賞としての評価か。“アカデミー賞作品”という冠が興行成績に結びつかないのは、よくあることで、『イングリッシュ――』も、ことに日本での成績はよくない。
商業主義のハリウッドで、リスペクトされるには、まず、作品が稼がなければならない。どんな賞を取ろうが、巨大マネーをキックバックしなければ、真の意味での一流とは認められない。ありあまる賞を獲得したミンゲラが、業界注目のなかで“当たり”を獲るために次回作として選んだのが、おもしろくて実績のある『太陽がいっぱい』のリメイク映画『リプリー』なのだ。

ただ『太陽がいっぱい』は、監督ルネ・クレマンの演出もニノ・ロータの音楽もさることながら、アラン・ドロンあっての成功という事実は衆目の一致するところで、あのはまり役の地でいく暗くて品のない美男ぶりはただことではない。このアラン・ドロンこそ、ただ者ではなかったのだ。 『太陽がいっぱい』で、ドロンは世界的な人気を確定づけるが、『クリムゾン・リバー』のマシュー・カソヴィッツ監督が来日の際のインタビューで語っているように、フランス映画は昔から“情景描写”が売りだ。音楽を抑えた、暗く湿ってるのだか、乾いてるのだかよくわからないヨーロッパ映画の“情景”にドロンの個性は見事に合っていた。

60〜70年代に、日本でフランス映画が人気を博したのは20世紀を代表する美貌スターのアラン・ドロンがいたからだ。今年(01年)の2月に、朝のワイドショーで中国の新聞記事を紹介していたが、「中国人の憧れる外タレ」のアンケートで何と1位がアラン・ドロンだ。2位が高倉健で、3位が山口百恵だと。何も20年前の記事を紹介していたのではない。今世紀に入っての新聞記事だ。高倉健は映画の影響らしいが、山口百恵はテレビの影響らしい。いまどき、このズレぐあいがすごいし、そのおかしさがワイドショーでの紹介の理由だろうが、こんなところでも1位を獲得するドロンはすごい。

ドロン人気はアジアにおいても、極東の日本だけのものではないのだ。もちろんハリウッドにも64年あたりから進出を計るが、あの冷たい暗さはハリウッド受けはしなかった。ディーン・マーチンと共演した『テキサス』('66 米)はコメディーだし(マーチンの尻に矢が刺さるところは笑える)、ドロンは色男ぶりを十分に発揮し、本人の映画史上『お嬢さんお手やわらかに!』('58 仏)以上に、もっとも多く笑顔を見せたが、目は心底笑っていない。やたら品がよくて底抜けに明るく白い歯を見せて笑うが、目の奥は冷たい。

ドロンが映画以外で最も世界の耳目を集めたのが、68年に元ボディーガード射殺事件の容疑者とされたときだ。ドロンのボディーガードは66年にもハリウッドで1人が変死しているのだが、今回は射殺をドロンが企てたのではないかというものだ。この報道は、のちのクリストファー・ウォーケン騒動(第1回目参照)以上にセンセーショナルなもので、ドロンと暗黒街との癒着までもが暴かれたのだが、結局は、政治問題まで発展し、うやむやのうちに決め手となる証拠なしということで起訴にはいたらなかった。

『ショック療法』('72 仏)ではスッポンポンでちんぽをブリブリ振りながら海岸を走って世界をびっくりさせ(日本ではボカシ入り)、77年には頭にひまわりが咲いたようなカーリーヘアにした。このころ、郷ひろみも突然カーリーヘアになったが、何もいきなりトチ狂ったのではなく、グローバルな視点で流行を追ってのものだ。
ちょっと前に、なぜかパリコレで故鈴木その子のエスコートをしたときは、般若みたいな悪役顔で笑っていたが、ハゲてもいず、まだまだ色男でせくしいだった。鈴木その子の夢をかなえ最後に喜ばせてあげるところも優しくてえらい。

ドロンの魅力を際立たせる役どころは、やはり犯罪者だ。ただただクールな『サムライ』('67 仏)もいいけど、私は渋みが出はじめた『仁義』('70 仏)での寡黙ななかに友情を重んじる男の哀愁が好きだ。とにかくこんな、ちょっと怪しげで危ない大スタードロンが、まず最初に世界にその輝きを知らしめたのが『太陽がいっぱい』のトム・リプリー役なのだ。
貧乏ゆえに屈折した劣等感を持つリプリーが、ついには金持ちの放蕩息子を殺した上に彼になりすまし、金と女を手に入れる。犯罪に手を染めざるを得ないリプリーの美貌が切ない。まさにドロンのはまり役だ。演技云々ではなくて、個性の問題だ。もちろん、この映画が最初に公開された当時に観た人間に、この後のドロンの凄玉ぶりなどわかろうはずはないのだが、映画は何度も観返されるものなので、後から得た知識が昔の映画を観る目をより深くする効果もあって、しかるべきだ。
別にドロンの何たるかを知らなくても、『太陽がいっぱい』でのリプリー役は、陰影のある冷たい美貌が作品のなかで強烈なオーラを放っている。

故黒澤明監督が、10年くらい前に、「なぜ昔のような痛快時代劇をつくらないのか」の質問に、「三船敏郎のようないい俳優がいない」と答えていたが、同じように『太陽がいっぱい』を、そっくりそのままリメイクするとすれば、まず、当時のアラン・ドロンを凌ぐ若手俳優は見当たらず、“レベル”として旧作を超えることは難しい。
そんなことは、プロのアンソニー・ミンゲラは十分にわかっていて、それならこんなもんのリメイクはやらなきゃいいのに、とも思うのだが、“ホモ”という新機軸を打ち出し、勝算ありと踏んで、果敢に挑戦した。これは“アカデミー賞監督”としての“自信”と“あせり”だ。

リプリー役、放蕩息子役、としてミンゲラが選んだ2人の俳優は、マット・デーモンとジュード・ロウ。デーモンといっても悪魔ではなく、ジュードといっても柔道家ではない。どちらもいま、売り出し中の若手で、マット・デーモンはハーバード大に通ったことを売りにしているわけではないが、『グッド・ウイル・ハンティング』('97 米)の脚本を書いてアカデミー脚本賞を獲ったりする異才だ。
演ずる役どころとしては、いつも真面目な好青年ばっかりだが、役者としての輝きはどうか。主演作も多いが、『ラウンダーズ』('98 米)あたりが一番おもしろい。真面目な秀才学生がトランプ博打にのめり込む。ただここでも周りにガチガチの個性派がそろったこともあって、それらに食われてしまって個性が光らない(共演陣は、エドワード・ノートン、ジョン・ターツゥーロ、マーチン・ランドー、ジョン・マルコビッチ)。

『プライベートライアン』('98 米)は第2次大戦中、戦場で4人兄弟の3人までも息子を失った母親のために、軍が唯一生存が確認できた末弟の二等兵を生きて連れ戻すために小隊を前線に派遣する。1人を生かすために、何人かが犠牲になるのだが、この二等兵が生意気で救う価値のないとんでもない奴ならまた別の展開になってしまう。もちろん反戦映画だが、そういう切り口ではないので、ここは真面目で好感が持てる救いがいのあるやつでないといけない。この救いがいのあるライアン二等兵役がマット・デーモンだ。

この大作の、この役にキャスティングされるところがデーモンの個性なのだ。ジミー大西をキリッとしたようなマスクは男前なんだろうけど、美形とはいい難い。ミンゲラ監督は、ドロンとは全く異質のキャラクターであるデーモンを新作のリプリー役に据えた。
この新リプリーがホモなのだ。旧作では、自分とは大きく境遇の違う放蕩息子への怒り、嫉妬が殺意を生むが、新作は放蕩息子への憧れがホモ心に変わる。放蕩息子はホモ心を受け付けず、2人の感情のもつれが殺意につながる。
映画のなかで放蕩息子はホモではなく、怪しい雰囲気のフロ場のシーンでもリプリーの微妙な誘いに応じない。この放蕩息子がHHN(第1回参照)のジュード・ロウ(でも子ども3人)だ。柔道家ではない。設定上、リプリーが憧れホモ心を抱く放蕩息子のほうに美形を持ってきた。(旧作ではこの役は、モーリス・ロネだが、ドロンに食われたもののロネとて当時売り出し中の二枚目スターだった)

この『リプリー』でアカデミー助演男優賞候補となったジュード・ロウは目下絶賛大売出し中で、公開中の『スターリングラード』(未見)のあとには、スティーブン・スピルバーグの『A.I』(もちろん未見)が控えている。
ブレイクを予想してか、すでにビデオでは過去のジュード・ロウ出演の未公開作がぞくぞく出はじめていて、ちっともおもしろくなくてロウにも魅力がない『ファイナルカット』('99 英)〈同名タイトルで、サム・エリオット主演の怪作もある〉の巻頭には、8本の予告編が入っているが、このうち4本までもがジュード・ロウ出演作だ。
ロウは美形スターとしての地位を確立するなら、ここ2〜3年が踏ん張りどころだ。4年後にはハゲる。(『スターリングラード』のジャン=ジャック・アノー監督は、ロウを評して“10年後にはトップスターになっている”と語った)

ホモ映画にしたから、監督がホモということもないのだろうけども、アンソニー・ミンゲラがホモかどうかは確証がないので触れないが、今回も『イングリシュー』同様、もっとドロッとうざくしてもよさそうな話に自分がもっていったのに、妙にサラッとしている。油っこくなさがこの監督の芸術クリエイティブだ。『リプリー』はおもしろいし、はらはらドキドキ感はこちらのほうが急だ。
中途半端なラストは続編も視野に入れてのものか。ジュード・ロウも、マット・デーモンも悪くはないのだろうけども(私は『イグジステンズ』のロウが一番好きだ)、ミンゲラ監督が仕掛けた2人のタッグの変則技もドロンの強烈な個性を凌ぐほどのものではない。
やはり懸念通り“スター映画”として『リプリー』は『太陽がいっぱい』を超えられない。タイトルで負けてるし。

フレデリック・フォーサイス原作『ジャッカルの日』('73 米)をブルース・ウイリス、リチャード・ギアの2大スター共演でリメイクしたのが、『ジャッカル』('97 米)だ。フォーサイスは、ケネス・ロス脚本、フレッド・ジンネマン監督の旧作は気に入ったのだが、何やら派手な娯楽大作になりそうな新作には、「『ジャッカルの日』は社会派サスペンスなんだぞ」とか文句いって気色ばんだらしい。

“社会派”という“くくり”がよくわからないが、主人公のズボンのチャックが開いてたら“社会の窓派”か。社会や国に対して何かを訴える映画を“社会派映画”というらしいのだが、堅苦しいカテゴライズはおっさんたちへのブラフにはなっても、別にそれで権威が付与されるわけではない。線引きも曖昧だ。
とにかくフォーサイスの小説の原題『ジャッカルの日』をタイトルに使うことは許されず、ただの『ジャッカル』になった。クレジットにもフォーサイスの名は見えず、旧作の脚本を書いたケネス・ロスが“原作”となっている。
“ジャッカル”という殺し屋が政府要人の命を狙うというコンセプトは同じで、文句をつけられても、これはれっきとした新旧ともに手がけたユニバーサル期待のリメイク映画なのだ。

旧作で、ドゴール暗殺をもくろむ一匹狼の殺し屋“ジャッカル”を演じたのは、渋めのエドワード・フォックス。名前はフォックス=キツネなのに、ジャッカルだ。“社会派サスペンス”なるものは別にリアリティーのみを求められるものではないが、ジャッカルの目的決行までの行動はかなりシュールでムリもある。ここらの映画的デフォルメがあるからおもしろいのだ。

新作はジャッカルにブルース・ウイリス。その謀略を阻止せんがために、FBIは刑務所に収監されているIRAのスナイパーを雇うが、これがリチャード・ギアで、旧作にはない新キャラだ。誰もが思うように、逆のキャスティングのほうが自然のような気もするが、2大スターの共演に自信を持った新作のマイケル・ケイトン・ジョーンズ監督も、やはり最初はブルース・ウイリスがジャッカルを追う刑事の役どころを設定したらしい。これはこれでピッタリすぎるが、となると、ジャッカルがリチャード・ギアだ。これは生々しいぞ。
ブルース・ウイリスのジャッカルは何やら軽妙で、あえて虚像仕様だが、リチャード・ギアなら違った。ギアが『インターナルフェア 背徳の囁き』('89 米)で見せた色狂いの気色の悪い悪漢ぶりは「ギアというのは本当はこんな奴なんだろうな」と思わせるくらいはまっていて、ブルース・ウイリスなら際立たないジャッカルの冷血ぶりもギアならかなりの恐ろしさをもって迫ったはずだ。これならこれでおもしろいとも思うのだが、映画の雰囲気はかなり異なったものになったに違いない。

ブルース・ジャッカルの最後のあがきも徹底した悪者ぶりでいいが、こういうスター共演の善悪どちらも立てた場合、えてして悪役のほうの個性が目立っておいしいものなのだが、ブルース・ウイリスの怪演をむしろ食ってしまったリチャード・ギアの当たり前のようでいて、かなりの存在感はさすがだ。
旧作は、フォックス・ジャッカルが計画行動の途中、女を垂らしこんでちゃっかり女の家を宿とするが、これも緻密な計画の一端だ。うまく女を口説き落とせなかったらどうするんだろうと思うのだが、殺し屋は渋くてクールな魅力でモテるのだ。
新作は垂らしこむ相手がホモというのがおかしい。ブルース・ジャッカルの濃厚なキスひとつで陥落する。別に相手がホモである必要はないので、もしもギア・ジャッカルならやはり女だろう。ベッドシーンのひとつもあるやもしれん。キャラクターの問題だ。こんなささいなところをとって見ても、ギア・ジャッカルのほうが生々しいと思うのだ。(こんな意味で生々しいと言っているのではないけども)

私は新作のラストシーンも好きだが、社会派映画信奉者に言わせると、旧作に比べ新作は“ただの娯楽アクション映画”に過ぎないらしい。“ただの”の向こう側には、フォーサイスがいうように“旧作は社会派サスペンス映画だ”という啓蒙意識が見える。
あやふやな“くくり”だけを映画芸術の判断基準とするのは、おかしい。ただの娯楽映画だろうが、社会の窓派映画だろうが、アート映画だろうが、おもしろいものはおもしろいし、駄作は駄作だ。
この“ジャッカル”新旧2本に関していえば、“どちらもとてもおもしろい。どちらを評価するかは、好みと思考の問題だ”と判断するのが正しい。

ブルース・ウイリスとリチャード・ギア、どちらも大物トップスターであることは間違いないが、こういう大物共演の場合、クレジットに“どちらの名前を先に出すか”という問題は結構重要なのだ。みんな、それぞれスターとしてのプライドがあるので、洋の東西を問わず昔から名前の序列に関する問題は多い。
故田宮二郎は『不信のとき』('68 大映)の名前の序列に不満を抱き会社にクレームをつけ、揉めたあげく大映を去ることになった。このときが、ほんまの“不信のとき”だった。
アラン・ドロンとジャン・ポール・ベルモンドなどは、『ボルサリーノ』('69 仏)で、どちらの名前を先に出すかで裁判沙汰にまでなった。ケンカではなくて、トップスターとしての2人のプライドが相譲らなかったのだ。(これは製作がドロンのプロダクションなので、“客人”としてベルモンドを先に出すことで落ち着いた。最近、2人が再び共演した『ハーフ ア チャンス』('98 仏)がビデオ化されたが、そそらないので、まだ観ていない)

1つの画面にスター2人の名前を一緒に出す場合も多いが、このとき画面に向かって左側が格上扱いとなる。日本では逆に、画面に向かって右側が格上扱いだ。英語は左から、日本語は右からと文字を読む順序と同じだ。
たとえば、アルパチーノ、ロバート・デ・ニーロ共演の『ヒート』('96 米)では、アルパチーノが左、デ・ニーロが右。メル・ギブソン、ジュリア・ロバーツ共演の『陰謀のセオリー』('97 米)では、メル・ギブソンが左、ジュリア・ロバーツが右。
これらは格順通りで普通だが、『マッドシティ』('97 米)のジョン・トラボルタ左、ダスティン・ホフマン右や、『クリムゾンタイド』('95 米)のデンゼル・ワシントン左、ジーン・ハックマン右は、トラボルタ、ワシントンの主張にホフマン、ハックマンが納得してのものだ。
ハックマンは他の作品でも序列に関して強力な主張はないが、大物に変わりはなく、『スーパーマン』('78 米)では出演者一人ひとりの名前が“しゅごーん”と出てきて、宇宙のかなたに消え去るが、トップがほんの数分しか顔を見せないスーパーマンの父親役マーロン・ブランド、2番目が悪役レックス・ルーサー役のジーン・ハックマン。主演のはずのスーパーマン、クリストファー・リーブは3番目だ。

当時のトップスター、スティーブ・マックイーンとポール・ニューマン主演の大ヒット作『タワーリングインフェルノ』('74 米)の名前の序列には製作側が大いに頭を悩ませ、どちらをも納得させたアイデアがすばらしい。これも、ひとつの画面に2人同時に名前が出るのだが、マックイーンが左、ニューマンが右。ただし、右のニューマンが左のマックイーンより一段上に上がっているのだ。
「左は譲ったものの、その分、ちょっと上に名前があるぜい」という、この心遣いに当時劇場で観た私などは感動した。しょーもないことで心が震えるのだ。

『ジャッカル』のブルース・ウイリスとリチャード・ギアもこれを真似た。ウイリスが左、ギアが右だが、ギアが一段上に上がっている。ただし、『ジャッカル』はエンディングロールでは通常通りスタッフ・キャストは1列で下から上へ流れるが、このときはウイリスが1番目で、ギアは2番目だ。
『タワーリング――』の場合は、エンディングロールまでもマックイーンとニューマンだけは2人横並びで、やはり右のニューマンが一段上に上がっている。この“位置どり”は徹底していて、正規のパンフレット・ポスター類は全てこの表記だった。間違いなく、分厚い契約書のなかに1項が入っていたと思う。

こんなすばらしい順列表記映画は、これまで『タワーリング――』と『ジャッカル』の2本だけだが、他にもアイデアを凝らした気遣い映画はある。
快作『ハートブルー』('90 米)は、キアヌ・リーブス、パトリック・スエイジ主演だが、キアヌ・リーブスの名前が画面左からフレームインしてくる。パトリック・スエイジの名前は右からフレームイン。なんと、2人の名前が画面中央で交錯し、それぞれ入り口とは逆方向へフレームアウトする。なんじゃいこりゃ。ものすごい気遣いじゃ。(キアヌ・リーブスは結構主張があって、『ディアボロス』('97 米)ではアルパチーノを差し置いてトップに名前が出る)
 アンディ・ガルシア、マイケル・キートン主演の『絶対X絶命』('97 米)では、アンディ・ガルシアの名前が画面右上からフレームイン、マイケル・キートンは画面左下からフレームイン。それぞれ斜めに動き、画面中央で交錯し進行方向へフレームアウトする。ううーむ、なかなかのもんじゃ。やはり、ものすごい気遣いじゃ。

映画の名前の序列は、結構おもしろいものや感慨深いものがあって、実はこの『リメイク映画のリフレイン』の前に『東西格付合戦』というのを書こうと思ったのだが、マニアックすぎるのでやめた。

 ありゃりゃっ いけねえ、いけねえ。ダラダラ余計なことばっかり書いてたらページがなくなってしまった。前・後編に収めようと思ったリメイク映画の半分しか書いてないぞ。うーむ、困ったな。しょうがない。残りはまたの機会にするぜっ。