――映画の泣きの“ツボ”――
Text by 田村信


 漫画でも映画でも人を笑わせるのは難しいし、泣かせるのもまた大変だ。人それぞれ笑う“ツボ”、泣く“ツボ”が違うし、何より“感性”というものが千差万別なだけに、私が大泣きして感動した映画も人からみればただの駄作に過ぎなかったり、その逆もしょっちゅう生じる。
 結局は、“好み”に大きく左右されるわけで、職業がらそんなことは百も承知なだけに私の大好きな映画をボロクソにいわれたりしても、その人を嫌いにはならないし、友情関係に支障もきたさない。「何でこれがわからんのじゃー!」とかいって喰いついたりもしない。人それぞれ見方もあるし、楽しみ方も違うのだ。

 もうはるか昔に亡くなったが、私の祖母は元気なころ、週2回映画館に通っていた。当時、私の実家の近くに東映の二番館があったのだが(東映と名うってはいても5社の映画全てが観えた)、そこへ座布団と弁当を持って通っていた。二番館は3本立てで週ごとにプログラムが変わるから、同じ映画を2度ずつ観ていたわけだ。幼稚園だか、小学校低学年だかの私もよく連れていってもらったが、おばあちゃんはイスに座布団を敷いて正座で、観ていた。
 その頃は、まだまだチャンバラ時代劇が幅をきかせており、おばあちゃんは大川橋蔵の大ファンだった。
「キンノスケもきれいがハシゾーの方がもっときれい」などといいながらスクリーンに見入っていた。正座で。
 ハシゾーが涙を流すシーンでは一緒に泣いていた。

 ここ数年、私は映画はビデオでしか観ないが、「映画館で観ないと映画じゃない」などとのたまう人も多い。確かに大画面、音響設備等、いわんとすることはわかるが、映画は映画だ。映画館で観ることのマイナス面もあるし、特に私のような“泣き屋”は独りで観たい。人がいるとおちおち涙も流せない。 以前、『少林寺』('82香・中)を新宿の映画館で観ていたときに、劇中で少林寺の先生が敵の矢に倒れ、弟子たちの腕のなかで息を引き取る場面でなにやら「うずずう〜」「うずっ、うずっ」という妙なすすり上げが微かに聞こえる。ふと、隣をみると中学1年生くらいの2人組がそろって涙を流して泣いていた。さすがに私は、この映画では泣けなかったので、2人にびっくりすると同時に「なんて感性豊かな奴らじゃ。純ということはすばらしい」などとこっちの方に感動したりした。

 また、『告発の行方』('88米)では、レイプされたジョディ・フォスターの裁判が進む後半からは、場内のあちこちで「えずっ、えずっ」「ふずずうー」などと女性たちがすすり上げている。私の漫画だと、ここで「そずずずっ」とかいう音がして誰かがざるそばをすすっているギャグが必ず入るのだが、現実にはそんな不届き者はいない。女性たちが泣いているのだ。この映画こそちっとも泣けなかった私は、ここでもびっくりした。
 どこで泣こうがまことに勝手なわけで、人がとやかくいうことではないが、たとえばこれが逆の立場で、私が映画を観てすすり上げてるところを横から奇異の目で見られたら恥ずかしいし、うっとうしい。
 だから、映画はビデオで独りじっくり観たいのだ。

 高校時代に、映画館で映画を観る課外授業が何度かあったが、覚えているのは『天使のともしび』。これは『ぴあ・シネマクラブ洋画編』にも載っていなくて、何年度のどこの国の映画か、いまとなってはよくわからないが、寡黙なじいさんとどこかの子供のひと夏の触れ合いの話で、みんなコソコソと話をしているし、真剣になんか観ていないのだが、私独りラストでボロボロ泣いた。
 この歳になって、こういうのはいやだから映画は独りでこっそり観たいのだ。

 泣きの“ツボ”の論点は深く多様だが、大きく分けて2通りに区別できる。女性型と男性型だ。この区分は笑いの“ツボ”よりいく分差異は大きい。
 女性型は“悲しさ”で泣く。映画のなかでヒロインがこれでもかというくらい過酷な運命に翻弄されて、状況が悲惨になればなるほど大きなシンパシーを感じてオロオロ泣く。昔の少女漫画の基本パターンでもある。これは基本パターンに当時の読者が感化されたのではなく人気作品を模索していくうちに確立された必勝路線だったのだ。

『告発の行方』もひとつの例だが、このあたりの女性型泣なかせの“ツボ”を露骨に狙った映画も昔から結構多い。代表的なところが『あゝひめゆりの塔』('68日)、『あゝ野麦峠』('79日)。前者は第二次世界大戦の沖縄戦に従軍した臨時看護婦部隊の話で全員が戦死する。主演は吉永小百合。後者は明治から昭和初期の製糸工場の女工さんたちの物語で、これも次々と不幸が襲いかかる悲話である。主演は大竹しのぶ。
 どちらもタイトルの『あゝ…』という部分に中身の不憫が凝縮されており、「さー、泣けまっせー、泣かせまっせー」的大風呂敷がいやらしい。

 男性型はこんなところでは泣かない。
 むしろ降りかかる艱難辛苦を己の努力と執念で、打破しようともがく様(さま)に心うたれ涙する。男性型は“感動”で泣くのだ。一世を風靡した“スポ根漫画”は、漫画史の初頭から現在もなお主流だが、これには男性型泣きの“ツボ”の全ての要因が内包されている。これも必勝路線だったのだ。
 この型の映画の代表作が『ロッキー』('76米)なわけだが、何もスポーツ絡みだけではなく、男性型泣きの“ツボ”の定義からいえば、『ダイハード』('88米)も『アルマゲドン 』('98米)も同じカテゴリーに入る。どちらの“型”もベースに流れるのは「愛」だが、どうしても女性型より男性型の方がポジティブなのは生理的ギャップなわけで、これはいかんともしがたい。
 双方の型の共通項は“別れ”だ。これは男性型、女性型、どちらの泣きの“ツボ”も刺激する。“別れ”にも様々あって、死別もあれば、いっときのさよならもあるし、もう二度と会えないかもしれない「さらば」もある。
 女性型は絶望的な別れにより泣くし、男性型は希望的別れの方に心が震え感涙にむせぶ。そして泣きの“ツボ”の最強アイテムは“子供”だ。使い方もいろいろ。この無垢が絡めば、涙は増幅する。もちろん、これら全てはまず作品がよいできで面白いことが第一条件であって、ちっとも面白くない映画がいきなり泣かせにかかってもそうは問屋がおろさない。泣くどころか腹が立つ。どんなに“ツボ”をそろえても、面白くない映画はいかに“泣き屋”といえども泣けない。
 また女性型の“悲しさ”映画は、何度も見返すのは辛いし、徐々に泣かせどころも色あせるが、男性型“感動”映画はリピートに耐え、むしろ回を重ねるごとに心地よく泣ける。

 吉永小百合・浜田光夫のゴールデンコンビで国民的大ヒットとなった典型的な女性型泣きの“ツボ”映画『愛と死をみつめて』('64日)は、不治の病が若い恋人たちを揺さぶり、永遠の別れの瞬間を迎えるが、これが実話の映画化だということを観客も知っており、場内は涙一色だったが、私は幼かったせいもあり、あまりの不幸がただただ恐く、みんなが泣いている館内の雰囲気が不気味だった。
 女性型泣きの“ツボ”の古典、大江賢次原作の『絶唱』は58年に小林旭・浅丘ルリ子、66年には舟木一夫・和泉雅子、75年には三浦友和・山口百恵と、それぞれのコンビで3回も映画化されている。
 私は66年度版しか観ていないが、これも大悲恋のお話で、スッタモンダの挙げ句どうなるのかなと思ったら最後はヒロインが病死し、結婚式と葬式を同時に挙げるというものすごいオチがつく。
 やはりみんな泣いていたが、私は時間が長かった。ただ、ひねりとオチの大切さをこのあたりの早い時期に痛感した。

 ベストセラーとなった有吉佐和子原作の『恍惚の人』('73日)は森繁久弥扮する老人性うつ病の父と、介護する高峰秀子演じる息子の嫁の交流記だが、ボケた森繁が家を飛び出し、必死の捜索で高峰が見つけだして2人抱き合うシーンは泣けた。
 ただし、もう1度泣こうと2回目に観たときは泣けなかった。ディテールを知らずにどうなるんだろうと話を追う1回目と、すべてわかった上で泣き所を身構える2回目とでは、明らかに涙腺への反応は違ってくる。
 全編を覆う悲しさ、重さ、ラストの儚さも知ってるだけに、泣きの“ツボ”が際立たず生きない。ここらが女性型泣きの“ツボ”映画のまさに“泣き所”で、悲しさの売り一辺倒では、たとえラストにささやかな陽があたる作品でも、そう何度も観たくないし、観たとしても最初ほどの涙はまず出ない。

 やはり観るたびに涙の量が増え、心地よく泣けるのは男性型泣きの“ツボ”映画だ。『ロッキー』なんかは飽きてしまうのがもったいなくて、2〜3年に1度しか観ないが、最近では、昔、映画館で人目もはばからずボロボロ泣いたラストシーンを待つまでもなく、冒頭の場末のリングシーンから既に涙腺がゆるむ。スケート場でのデートシーンではもう下まぶたが涙で重いし、エイドリアンを家まで送ったあと、ドア越しでの2人のささやかながら夢を追う会話に、たまらず涙がハラハラ落ちる。
 この映画は、静かな場面でも隅々まで俳優、監督、音楽家らの、「面白いものをつくってのし上がってやる」との並々ならぬ熱い気迫が垣間見え、劇中外での男性型泣かせの“ツボ”までもがすべて作品に投影されており、ゆえにますます泣けたりする。
 結局、1時間58分ずっと泣きっぱなしなわけで、観終わったあとはほとほと疲れる。いまでもTVのバラエティーなんかでラストの感動のテーマ曲がよく使われているが、この曲を聴くたびに条件反射でキュンと胸が熱くなる。

 泣きの“ツボ”を彩るには音楽もひじょーに大事だ。『ロッキー』の音楽はこれ一作で大いに名を売った天才ビル・コンティ。ジョン・G・アビルドセン監督とのロッキーコンビで挑んだ『ベストキッド』('84米)以来、大きなヒットはないが、手がける映画曲はみんな名曲だ。
 最近リメイクされた『グロリア』('99米 主演シャロン・ストーン)のあえて押さえたハワード・ショアの曲より、やはりオリジナル版『グロリア』('80米 主演ジーナ・ローランズ)のビル・コンティの曲の方が重厚でグッとくる。『テリー・フォックス物語』('83加)なんかは、劇場の予告編で曲のサビが流れただけで胸が熱くなった。
 レスリー・ニールセン(『裸のガンを持つ男』シリーズ)の『スパイハード』('96米)の音楽も手がけたりするが、映画はおバカナンセンスでも曲はまともだ。隠れた名曲は『ブラッドイン・ブラッドアウト』('93米)。これは『愛と青春の旅立ち』('82米)を大ヒットさせたテイラー・ハックフォード監督の手による作品で、スパニッシュの従兄弟たち3人が警官・芸術家・ギャングと、それぞれの道を壮絶に歩む。大力作で映画も面白いが、ビル・コンティの音楽が素晴らしい。ラストからエンディングまでにかけて流れるセンチメンタルと希望が入りまざったラテン系のこの名曲のフルコーラスで、映画の感動は倍増し、そっくり心にとどまる。  最新作は、またもジョン・G・アビルドセン監督と組んだジャン・クロード・ヴァンダム プロデュース主演の『ヴァンダム・イン・コヨーテ』('99米)。これは作品・音楽ともに失敗作。(全部名曲ってゆーたがな)芸術家に失敗作はつきものなのだ。

 “泣かせ”を狙った映画はそれぞれ自慢の“泣かせ音楽”を用意し、ここぞというシーンにかぶせるが、それが陳腐だったり大仰すぎてもよい効果は得られない。
 松本清張原作の大ヒット作『砂の器』('74日 監督・野村芳太郎、脚本・橋本忍、山田洋次)は主人公が音楽家だけに、一番の泣かせどころの回想シーンを主人公が指揮する演奏会にかぶせ、“泣かせ”音楽は交響曲の『宿命』である。この構成を含め、評価は妙に高いが、交響曲『宿命』でみんなが感動すると判断したセンスはいかがなものか。

 音楽の効果だけでなく“泣かせ”シーンは濃すぎてもあっさりし過ぎても美味とはならないわけで、そのさじ加減は難題だ。
 山田洋次監督が高倉健と組んだ『幸福の黄色いハンカチ』('77日)は、ラスト高倉健と妻の倍賞千恵子が感動の再会を果たすという最大の“泣かせ所”をあえて共演の若い恋人たちの目からみたロングで撮って、会話も表情も伺わせない。
 このシーンだけ“くささ”を押さえた演出は、山田監督の計算か照れかは知らないが、“くささ”に徹していれば“泣き屋”は泣けた。
 同じコンビの第2弾『遙かなる山の叫び声』('80日)では、今度は最強アイテムである子供も配し、ラストの“希望ある別れ”もストレートに正面から“泣かせ”にかかる。やはり、こちらのほうが感じるものはある。

 主だった賞を総ナメにした『レインマン』('88米)にもラスト、自閉症の兄ダスティン・ホフマンと弟トム・クルーズの“希望ある別れ”があるが、そこまでは他の観客の目もあり下まぶたを大きく膨らませつつも必死で涙をこらえてきた“泣き屋”としては、最後の駅での別れのシーンで“とどめ”を覚悟した。
「ここで抱擁でもされた日にゃ、もう涙はとめられない。大泣きするな…」
 が、それまで感情を一切表に出さない自閉症のD・ホフマンがクライマックスだからとかいってサービスするはずもなく、“とどめ”はない。
 誰と話しても「あそこで抱擁はリアリティーがない」「あれがアメリカ映画風でいい」となるが、泣き屋にはズバッととどめの介錯がほしかった。もっとも、観返すうちにあれで十分泣けるし、あのスマートさが映画の評価かなとも思う。その前のダンスシーンもセンスよく泣ける。

『レインマン』での“泣き屋”の想いを見事に果たしてくれるのが『マーキュリーライジング』('98米 監督ハロルド・ベッカー)だ。こちらはパズル雑誌で国家の重要機密を知ってしまった自閉症の少年が、国家を守るためなら殺人もいとも簡単にやってのける国家安全保障局(NSA)に執拗に命を狙われる。両親を殺され、たった一人になった少年をブルース・ウィリス扮するFBI捜査官が命をかけて守り抜く。
 予定調和ではあるが、男性型泣きの“ツボ”映画の傑作で、“最強アイテム”もけなげで素晴らしい。最後も期待を裏切らず、完膚なきまでに“とどめ”を刺される。ビデオパッケージには堂々と「ブルース・ウィリスの最高傑作」とあり、これを書いたスタッフも間違いなくラストで大泣きした口だろう。

 ブルース・ウィリスは『アルマゲドン』でも泣かせてくれる。「いやー、あの映画は…」などと嘲笑気味にいう人もいるが、“泣き屋”は待ってましたとばかりにクライマックスでは素直にポロポロ泣く。
 だいぶ以前から、ハリウッドではメジャーのライバル映画社同士が歩調を合わせるように同時期に同じようなネタの映画をつくる。どちらも遅れを取るまいと同じような企画を立てるのだろうが、たとえば(『ボディガード』'92米、『ザ・シークレットサービス』'93米)(『トゥームストーン』'93米、『ワイアットアープ』'94米)(『エグゼクティブデンション』'96米、『エアフォースワン』'97米)(『プライベート・ライアン』'98米、『シン・デッド・ライン』'98米)(『シックスセンス』'99米、『救命士』'99米)のように、すぐに他社がネタの後追いをする。

『アルマゲドン』に対しても同年制作の『ディープインパクト』('98米)があるわけで、地球に衝突しそうな彗星を宇宙船が爆破しにいくという2作は全く同じネタである。『アルマゲドン』の監督には大物プロデューサー、ジェリー・ブラッカイマーが自信を持って送り込んだマイケル・ベイ。『バッド・ボーイズ』('95米)、『ザ・ロック』('96米)をアクション映画の傑作に仕上げた骨太の男性路線一直線の気鋭だ。かたや『ディープインパクト』の監督にはこれも誰でも知っている超大物プロデューサー、スティーブン・スピルバーグの秘蔵っ子、TV『ER』の監督で認められ劇場用第1作『ピースメーカー』('97米)でも切れ味をみせた女流監督ミミ・レダー。
 2作とも、明らかに“泣かせ”を意図しているのだが、これはジェリー・ブラッカイマープロとスピルバーグ率いるドリームワークスの企業戦争、興行合戦であると同時に男性型泣きの“ツボ”映画VS女性型泣きの“ツボ”映画の勝負でもあった。
『アルマゲドン』はブルース・ウィリスの“スター映画”でもあり、図式的ながら迫力と快テンポでクライマックスまで一気に突き進むM・ベイの腕が冴えた基本的男性型泣きの“ツボ”映画だ。
 一方、前作『ピースメーカー』のラスト3分で微妙な間の美学をみせた感性豊かなミミ・レダーだが、この『ディープインパクト』はやはり当然の回帰で、女性型泣きの“ツボ”映画となった。おしむらくは、感性と脚本がやや噛み合わず、“泣かせ所”は拡散してしまった。主演が名脇役のロバート・デュバルというキャスティングもいかにも弱く、地味さは拭えない。  結局、観客は派手さを選び、勝負はあらゆる面の派手さで上回った『アルマゲドン』の圧勝に終わった。

 これら以外にも泣ける映画は洋画・邦画を問わず多々あるのだが、私が日本映画で一番泣いたのは、何を隠そう『座頭市血煙り街道』('67日)!!
 なんじゃそりゃ、などといってひっくり返らないでもらいたい。実はこの映画は全部で26作もある座頭市シリーズのなかの最高傑作というばかりでなく、間違いなく日本映画史上屈指の名作なのだ。正直なところ、このシリーズは暗いし、重いし、陰惨だし、評価の高い第1作目も含めてそんなに面白いとは思わない。途中で退屈する作品も何本もある。 だが、シリーズ第17作のこの『座頭市血煙り街道』だけは一味も二味も、どころか七味くらい違うのだ。この1本があるだけに座頭市は侮れない。みんなシリーズをひとまとめにして評価するが、この1本を見逃してはならない。シリーズの重み、力添えを排除し、この1本だけ抜き出しても、十分に座頭市の凄玉ぶりは伝わる。
 冒頭、画面いっぱいのススキヶ原。背丈ほどもあるそのススキに挟まれた細い道を座頭市がゆく。やおら後ろから複数のあわただしい足音。座頭市を追ってきた連中だ。二言、三言。いきなり切りつけるこれらの切っ先をかわし、瞬時の居合い切りでなぎ倒した後、悔恨の面持ちで仕込み杖を閉じる座頭市。ここで例の主題曲がかぶさってくる。 ♪「およし〜なさいよ〜むだ〜ああなこと〜」♪
 どうかひっくり返らないでもらいたい。このアナクロぶりがすごいが、あほうしか誉めない文芸作品ではないのだ。この冒頭の“つかみ”の部分で、たとえシリーズを初めて観た人にもこの座頭が何者か、背負った宿命のやんごとなき重さまでもが伝わる。
 満員の旅籠で、座頭市は旅の母子と同部屋となるが、病気の母親は市に息子を父親のもとに連れていってほしいと頼んだまま死亡。市と子供の旅がはじまるが、絵の巧みな父親は悪代官に軟禁され、御禁制の仕事をさせられていた。市は父親を助け出すが…。この事件を探る公儀隠密の凄腕侍役に近衛十四郎。公儀隠密としては事件解決のために父親を切り捨てねばならない。子供のために、母親との約束を果たすために、父親を守ろうとする座頭市。降りはじめた雪のなかでの決闘がものすごい。

 第1作を皮切りにシリーズ中計6本を監督した巨匠、三隅研次のメガホンが冴えにさえ、第一級の剣豪スター近衛十四郎はこの映画で一世一代の名演技をみせる!その鬼気迫る熱演はシリーズに登場した数々の相手役、天知茂・仲代達矢・三船敏郎・王 羽(ワン・ユー、あの怪作『片腕ドラゴン』のジミー・ウォング)らを遙かに凌ぐド迫力だ。『素浪人月影兵庫』『花山大吉』などでみせたすっとぼけた顔など微塵もない。市は己の命を捨ててまでも父親を守ろうとする。
 個性では日本映画史上ナンバー1の勝新太郎の演技もさすがにすごいし、『ゴジラ』『ガメラ』『大魔神』の伊福部昭の音楽もものすごい。何もかもがものすごい。最強アイテム子供との旅先での絡み、そしてこのものすごい対決があればこそラストの“別れ”の超名シーンはもう泣ける泣ける。そのひねり具合、さらにはそのロケーションがただただ泣ける泣ける。観返せば、観返すほどいろいろなシーンで泣ける泣ける。そして、これもまた男性型泣かせの“ツボ”映画の基本なのである。

 さらに驚くべきは、ハリウッドがこの日本が誇る名作を見逃さなかったことだ。常に貪欲に映画のネタを探し求めるハリウッドは90年トライ・スターがルトガー・ハウアー主演で『座頭市血煙り街道』をリメイクするのだ。これは単なるパクリではなく正規の焼き直しで、クレジットに三隅研次の名前も脚本の笠原良三の名前も出てくる。
 ごまんとある日本映画のなかで、座頭市シリーズだけでも26本もあるなかでよくぞ『血煙り街道』を選び出したその嗅覚には「さすがハリウッド」と商魂のたくましさに感嘆せずにはいられない。
 かなりの期待をもって観たが、ハリウッド版『座頭市血煙り街道』は『ブラインド・フューリー』(監督フィリップ・ノイス)と名をかえ、舞台は現代だ。ベトナムで失明したR・ハウアーは村民に剣を習い、仕込み杖の達人となる。
 話は『血煙り街道』をなぞってはいるが、子供にばかり目がいって、肝心の近衛十四郎の役がない。それとおぼしき役であのショー・コスギが出てきて、チャンバラ対決となるが、いかんせんS・コスギは麻薬密売組織の用心棒にしかすぎず、戦いには何の因縁もしがらみもない。
 オリジナル版は日本映画が持つ独特の陰湿さを強力な武器としているが、こちらは良くも悪しくもアメリカ製バイオレンス映画だ。ベトナムのじいさんから剣の極意を会得するというのも無理矢理だし、仕込み杖VSショットガンもかなり無謀だ。
 ラストはさすがにこの映画の“売り”でロケーション、構図、間ともオリジナル版とまったく同じ。しかし、悲しいかなこちらは泣けない。いかに名シーンでまとめようとしても、プロセスの隔たりはどうしようもなく、重みがみえず名シーンの安売りとなってしまった。

 ここでは泣かなかったが“泣き屋”は作品を何度も観返すうちに人が泣かないところでも勝手に泣く。『ダイハード』でB・ウィリスがエレベーターでテロリストたちに仲間の死体を送り付ける場面。この後の“決死のふんばり”を知っているだけに、この反撃の火ぶたを「誰の仕業だ!」とみんながいぶかる中、人質の一人である女房だけが「ジョンだわ…」とただ一人気づく場面で泣く。
『エイリアン2』のリプリーが、実は地球を発つときに娘を残してきており、帰還したときには既に死んでいたという設定だったと知ってからは、エイリアンに占拠された惑星で唯一生き残った少女に我が子をダブらせ、これまた決死の覚悟で守り抜こうとする“母親”の姿に胸が熱くなるし、最初に少女をみつけたとき、汚れた顔を優しく拭いてやるシーンで、少女がリプリーを「ママ」と呼ぶシーンで既に泣く。
 超高値のついたシナリオの『ロング・キッス・グッドナイト』('96米 監督レニー・ハーリン)でもCIAの元女スナイパーが我が娘の切なる呼び声に魔の淵から蘇るシーンにグッとくる。  これらはみんなアクション映画だが、もちろん泣ける映画はアクションだけにはとどまらない。

 われわれは、私は、面白い映画に出会うと、その作品の出来の見事さに笑い、感動し、泣きの“ツボ”をみつけて泣く。役者の演技の巧みさに笑い、泣く。そしてそれをつくり上げた芸術家たちの“天才のひらめき”に強く心を打たれるのだ。
“泣き屋”は面白い映画をてぐすね引いて待っている。▼